無限について考える。 著者:吉田作太郎。


ツェノンのパラドックスなんかで有名な無限。
昔、博識な誰かさんが、無限と宗教をイッショクタンにしていたようだけど、最近、少し、分かるようになった。

無限とはアンカウンタブルという意味を大学で知ったが、それが何かまでは、認識できなかったが、最近の認識では、無限とは、通常状態と比べて、突然性質が変わる極限状態の事を無限と呼ぶらしい。
であるから、きっと、無限とは、値が不定状態ではなく無定義状態の特異点という事になるだろうか。だから、その部分だけさけて、無限を取扱う時は、「近傍」なる言葉を使わないと取扱えないというしろものである。

無限とは、別に、「無限大」とは違うのである。
無限とは、単なる特異点だ。
無限大が、特に、特異点であるという事から無限なのだろう。
最大の数値の特異点の事を無限大と呼び、我々が知る事ができるのは、その近傍しか分からないのだ。また、無限を取り扱う場合、どっち方向からの近傍かというベクトルまで必要とする。

無限になったらどうなるか?答え。無定義。
無限を超えたらどうなるか?答え。無定義。
これが、人間が知る範囲というものである。

生きるという特異点とは、生まれる事と死ぬ事である。
そこで、宗教とは、この特異点とそれを超えたらどうなるかを話し合っている。
実にくだらない事である。
人間の知識では、それは、無定義な部分でしかない。
そこで、宗教とは、ヴァーチャルな存在を用意した。

神。魂。霊魂。

未定義なものを論議するのは、愚かである。
また、その時は、現実からの呪縛が一切断たれた空間なので、異次元の話になってくるのはしかたがない事。

宗教とは人間の知識の範囲外な事でしかない。
それは、「無限」なのであるから。

さて、ツェノンのパラドックスで、特異点とは何か?
これは、単なる言葉の呪いでしかない。

アキレスは、亀に追いつくまで、追いつけない。
これが、限界だ。この限界とは何か?
アキレスが亀に追いつけないがそれでも追い越そうとした場合の特異点とは何か?
そういう言葉の呪いの中に、無限が有る。この無限とは、アキレスが亀に追いついた時と、追いついた後が、つまり無限であり特異点である。

そう思っておけば良い。

それは、まるで、人間が死ぬ時は、どうなるか?
人間の死後の世界はどうなっているか?
そんな討議をまるでしているかのような話が、ツェノンのパラドックスなのだ。
これは、案外、宗教的な皮肉みたいなものであろう。

アキレスが亀に追いつく瞬間があるのに、また、追い抜いてしまった後の時間があるのに、
なぜ、人間には、死の瞬間や、死後との世界が無いなどと言えるのだろうか?
それは、単なる人間の認識の世界の中では無定義状態である。
単なる特異点でしかないのである。
認識の特異点が存在して無定義ではあるが、実際、シミュレーションしてみたら存在するではないか。
つまり、人間が、神や魂の存在を認めて、死の特異点という認識から逃れたら、そこには、魂や霊魂なる世界が存在して、死の認識を更に確実に理解する事ができるはずだ。認識する事ができるはずだという、あがきにもにた、詭弁の言論が、ツェノンのパラドックスという訳だろう。

さて、現実の問題について考えてみよう。
無限分割は可能か?
数学上は可能であろう。では、リアルではどうだろうか?
リアルな世界では、無限分割は不可能である。
量子力学的な小ささまで分割したら、もはや、今までの物理法則が成り立たない状態になってしまう。
また、無限大は存在するだろうか?
リアルな世界で、もし、無限大の空間を空想したとしたら、その果てはもは今までの物理法則が成り立たない状態になってしまう。
これが、特異点というものである。
そして、現実とは、この特異点になるまでは、通常の法則が成り立っている。
ただし、特異点になってしまったり、特異点を超えてしまったら、通常の法則が成り立たない事態が発生する。
そんな示唆を与えてくれる言葉が、「無限」というものなのである。

無限というものを、ウロボロスの輪によって表現する。「∞」
もし、この世が、デジタル回路のカウンターの様なものだと達観したとしたら、この無限という言葉を「∞」と表現するのは、一種の皮肉みたいなものだろう。
輪廻転生なる話も、宇宙の法則に従って生きていれば、結局は、宇宙の輪から逃れられない運命であり、輪廻は繰り返すものであるという認識になってしまう。
そして、我々が、神や仏を拝む時、両手を合わせる行為とは、六道の天界と地獄界をつなぎ合わせる行為にも似ている。
もし、この時、地獄にいるのであれば、手を合わせて拝む行為とは、きっと天界へと通じる行為であろう。
しかし、天界にいるのであれば、手を合わせて拝む行為とは、地獄行きもあるかもという行為であろう。

我々が、神に対して拝む行為とは、常に上を目指して、天上界にいようとも、常に地獄に堕ちる事を厭わないで、前向きに前進する姿でありたい。
これが、宗教的呪いに対する特異点への祈りとなるものなのであろう。

著者:吉田作太郎。

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